虎の威を借る狐
そんなある日、僕はいつになく真面目に国語の授業を受けていた。
その日の国語は漢文で、春秋戦国時代に書かれた『戦国策』の中の、「虎の威を借る」というエピソードをやっていた。
それは、こんな話だった。
虎は百獣の王だ。
彼は、他の獣を見れば、ただちにこれを取って食らうのだ。
あるとき、この虎が狐を捕らえた。
さっそくこれを食らおうとすると、狐は、食われまいとして、こう言った。
「愚かな虎よ、しばし待て。この私を食らうつもりか?私を誰と心得る?畏れ多くも天帝様より百獣の王に任ぜられた狐ぞ。この私を食らおうとするのは、天帝に逆らうも同然だ。その覚悟が出来ているのか。これを疑うというのなら、私の後についてくるが良い。このあたりの獣で私の姿を目にして逃げ出さない者はあるまい。それを見れば、いかに愚かなお前にもわかるだろう。」
これを聞いて虎は、ひとまず狐の提案に乗ってみる事にした。
こうして、狐が先にたち、虎はそのあとについていった。
すると、驚いたことに、獣たちは狐達を見ると、一目散に逃げ出したのだ。
百獣が、狐のほうを見て逃げ出す光景を目の当たりにし、虎は狐が百獣の王であることを信じ込んでしまった。
だが、本当に百獣を震え上がらせたのは、狐の後ろにいる虎の姿だったのだ。
一通り、説明をし終えた後で、先生は、
「どうだい。みんなのまわりにも、こんな人はいるんじゃないかな?」
と、問いかけた。
皆、騒ぎ出して、ああでもこうでもないと実例を挙げ始めた。
そんな時、松岡くんが、
「おい、田中ぁ!」
と、僕に声をかけた。
僕は、少し嫌な予感を抱えながら、
「何だよ?」
と問いかけた。
すると、彼は人を蔑むような目で、ニヤニヤしながら、こう言い放ったのだ。
「おまえのことだよ!」
教室にベキッ!という音が響き渡った。
それは、僕が握っていた鉛筆をへし折った音だった。
みんなが一斉に僕の方を見た。
僕は松岡に対して、
「この野郎!」
と、はらわたが煮えくり返るような気持ちになった。
それと同時に、みんなから一斉に注目を浴びた事で、わけがわからなくなり、いつの間にか、
ガタンッ!と椅子を蹴って立ち上がっていた。
頭にき過ぎて、折れた鉛筆を握った拳がブルブルと震えた。
これが武者震いというものかと、初めて思った。
本当に、
「ぶっ殺してやる!」
というぐらい腹が立って仕方がなかった。
それは、松岡が言っていることが本当のことだからだ。
授業を受けながら、ずっと、
「この狐は、俺だ。」
と思っていた。
耳の痛い話だった。
有名なヤンキーである兄の威を借りている松岡の、さらにその威を借りて、僕はヤンキー社会にポジションを得ているのだから。
僕が少し生意気な格好をしたり、目立つ行動をしてもシメられたりしないのは、松岡と仲がいいからだ。
僕が街を歩いていて、皆が道を譲るのも、僕がヤンキー集団のなかにいるからだ。
僕は、絶えず何かの「虎の威」を借りている狐に過ぎなかったのだ。
僕が実力で得たものなど、何もなかった。
授業を聞きながら、本当に自分が恥ずかしくなっていたのだ。
そんなときに、松岡に図星を指されたからこそ、頭にきたのだった。
そのうえ、そんな松岡自身も、兄の威光を笠に来ているだけの狐なのだ。
一番言われたくない奴に、一番言われたくないことを言われたのだ。
だからこそ、尋常じゃない怒りを感じたのだった。
勢いよく立ち上がってしまったことで、教室中の視線を浴び、もうすでに引っ込みがつかなくなっていた。
松岡は不敵に笑って、
「なんだよ?あ?」
と、人をなめきった目つきでこちらを見る。
その顔は、
「どうせお前は、虎の威を借る狐だ。自分の力じゃ何も出来やしねえ。
どうせお前はヘタレなんだよ!やれるもんならやってみろ!」
と言っているのがわかった。
ここで、こいつをぶん殴ったら、どんなに気持ちいいだろう。
こいつをここで叩きのめして、いままでの嫌な気持ちを帳消しにしてしまいたい。
その後で、こいつの兄貴が出てこようが、取り巻きの連中に袋叩きにされようが、どうでもいい。
本当は、こういう奴をぶん殴りたくて、ヤンキーになろうとしたんじゃなかったのか。
そう思ったが、この時の僕には勇気がなかった。
クラス中が固唾を呑んで見守る中、僕は、
「チッ!」
と舌打ちして、後ろにあったゴミ箱を蹴り倒し、教室を出ることしか出来なかった。
僕の人生の中で、ダントツに超ウルトラカッコワルイ瞬間だった。
教室からは松岡の耳障りな笑い声が聞こえた。